山崎研究室

近代史と鉄道から語る山崎隆の都市文明講座

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第9回 「横須賀」 編 その2

2009年、7月某日。

三笠の艦内は、現代の日本人の身長からすると、やはり天井が低い。
艦内の空気は、今はひっそりと静まりかえっている。
そこには、作戦遂行のために集まられた将官以下一兵卒まで
総員860名が一丸となった濃厚な空気が漂う。
格式のある重厚な木製家具に囲まれたこの会議室には、
作戦を練り続けた参謀たちの執念がまだ残っているようだ。

横須賀

北欧バルト海のリバウ軍港を出港したバルチック艦隊と、
いつ、どの海域で、ぶつかるのか…。
私は、参謀の一人として、作戦室の中にいた。
寡黙な東郷司令長官に何か名案を進言できればいいのだが…。

バルチック艦隊を撃滅すべし。
これは弱肉強食の帝国主義の時代にあって必達の目標であった。
三国干渉の恨みも晴らすべし。

日本が国際的に権益を確保し生き残るためには海軍力が必要である。
この戦艦三笠は、山本権兵衛らが発案者となって推進された、
六・六艦隊計画における象徴的存在だった。
愛国の意気高き男たちの情熱を乗せて幾度の海戦で勝利した。

そして私は、何かに誘われるように海の風が欲しくなった。
再び上甲板に昇る…。
すると、強い潮風が吹き上げた。
手中にあった戦艦三笠の案内書が飛ばされ、彼方に消えていった。

もしかすると、この強風は、対馬海峡のそれに近いかもしれない…。

ふと横を見ると、副砲の7.6センチ速射砲が沖の方に向いている。
この副砲は両舷に4門づつ並んで配置してあるものだ。

横須賀

その時だった。あっ!
ナント、あのバルチック艦隊が悠然と眼前を航行しているではないか。
どこからか突然に現れた砲術士官が命令を下した。
「距離1千500メートル!撃ちかた始め!」。
この距離では、殆ど水平射撃である。
既に敵艦から発射される砲弾が付近に無数の水柱を吹きあげていた。
一発の至近弾が身体をズブ濡れにした。

すぐに私は戦艦スオロフに照準を合わせ、速射砲を連射した。

横須賀

弾は確実に命中している。無数の火災が発生し始めた。
やはり下瀬火薬伊集院式信管の威力は凄まじい。

横須賀

すると今度は、どこからか若い女の声がした。
「山崎さん、大砲とジャレて何してるんですか?」。
「横須賀の街を調査しに来ているのに、大砲の調査ですか?」

その瞬間、バルチック艦隊が眼前から消えた。
私は、またも幻を見ていたのだろうか…。
眼前には、対馬海峡ではなく、浦賀水道が広がっていた。

「日本の近代化と都市文明を知るには軍需技術の調査が重要なのだ」。
そういう言い訳をして平静を装った。

横須賀

三浦半島の周辺には温暖な気候に恵まれた優良な住宅街が多い。
北東部には横浜を中心とした都市文明圏がある。
北西部には鎌倉を中心とした都市文明圏がある。

鎌倉の周辺は武家社会が発祥した地であるが、
同時に、戦前からの高級住宅地でもある。
このエリアには高級軍人や政治家の住居が多かったのである。
源頼朝の時代から、武人が住む街だったのである。

鎌倉市から横須賀市までのJR横須賀線の駅を地政学的に捉えると、
つまり大船、鎌倉、横須賀、久里浜という鉄道ラインを観察すると、
まさに帝国海軍のために敷設されたという事実が理解できる。

ここから海軍省のあった霞ヶ関まで通勤することも可能である。
もちろん横須賀から軍艦に乗って太平洋に出撃することもできる。
だから海軍の高級将官は鎌倉に住んだのである。

昔は、こんな形の職住近接もあったのだ。
「ちょっとシンガポールに出張してくるよ…」。
「もしかしたら永遠に帰宅できないかもしれないが、後を頼むぞ…」。

あるいは、かの有名な南雲中将は、鎌倉からサイパンに出張して帰らぬ人となった。

当時の多忙な高額所得層は、命がけの長期出張をした。
彼ら高額所得層は、凛々しくも本物のエリート層なのであった。
昨今シンガポールに増殖中のデリバティブ系の守銭奴たちとは違う。
だから彼らは田母神氏のように退職金も多かったはずだ。
国を愛する軍人の退職金が高いのは、いつの世でも正当なことである。

鎌倉市や横須賀市の賃料は、都心に比べれば、かなり安い。
だが、かつて軍需輸送にも使われた鉄道ラインは、今は通勤線になった。
品川や新橋にしか直接アクセスできなかったエリアだが、
今や湘南ラインによって渋谷や新宿にもアクセスできるようになった。

ここは、美しい海に面した歴史ある街である。
この海は、都内湾岸エリアのような汚れた海ではない。
こんな街なら住んでも良さそうな気がする。

横須賀

しかし深く考えると、疑問も残る。
もしも終電に乗り遅れたら、どうするか?
銀座からタクシーで帰ったら、いくら掛かるのだろうか?
それよりも日航ホテルに泊まった方が安上がりなのだろうか?

私は、呑(飲)み過ぎでメタボになってしまった腹をさすりながら、
そんなことを真剣に考えていた…。

(次回に続く…)

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