山崎研究室

山崎隆の虚実妄言

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実績とは何だろうか?(平成26年6月某日)

平成26年の6月、某日。
これは毎年のことだが、私は妙な時期に年賀状を整理している。

実績とは何だろうか?

理由は、交換する年賀状の数が多過ぎて1月中に整理出来ないからだ。
1月は何かと忙しい日々が続く。
新年会や新春セミナーといったイベントが続く。

そうこうしているうちに、2月になる。
すると、3月の事業年度末を意識して、
決算期までの売上数字を確保しなくてはならない。
3月の売上は実質的に2月に決まってしまう。
できれば赤字にしたくない…。

今度は4月を過ぎると法人の確定申告がある。
これを5月末までに仕上げないといけない。
自慢じゃないが私は自分の会社の経理事務に自信がない。
領収書は袋の中でグチャグチャにまとまって(?)いるし、
いつも税理士には怒られっぱなしだ。

私は顧客サービスに神経を集中し過ぎて、
自分の会社のことは忘れてしまうという性癖なのかもしれない。
これを言い訳がましく表現すると“医者の不養生”という。

それ故に年賀状の整理ができる時期は、なんと6月になってしまうのだ。

実績とは何だろうか?

年賀状の整理は、過去から現在までの人間関係や人脈の棚卸しのようなものだ。
顧客や取引先の方々の転勤や転職など状況を把握し、
その役職が変わると、私も一緒に一喜一憂する。

住所変更も気に掛かる。
遠く外国に行ってしまった人もいる。
誰もが皆、出世して欲しいと思うが、左遷されてしまう人もいる。
様々なことに思いを馳せながら、ネットワークの未来を占う。

たまに、嬉しい年賀状を頂くこともある。
その多くはクライアントからのものだ。
文面には「結婚しました。新居は快適です」とのこと。
この新居は、もちろん私が選んで探してきた物件である。
つまり、この夫婦はハウジング・アドバイザリーの依頼者だ。

思い起こせば、当初そのクライアントから受けた依頼内容は、
「婚約したので新居となるマンションを急いで探して欲しい」というもの。
やっとのことで代官山に見つかり、即購入。
そして、その数カ月後の正月のこと、
ウェディングドレスに身を包んだ可愛い奥さんと、
満面の笑みを浮かべる旦那さんの姿が年賀状で届いた。

実績とは何だろうか?

正直、これはとっても嬉しい瞬間だ。
仕事を続けていくためのモチベーション、励みになる。

「私が選んだマンションで新婚生活するんだあ~」。
「いいなあ~、ラブラブで…」。

色々と妄想をしながら、何かと祝福したい心で一杯になる。
そのうち「子供が生まれました」という年賀状も届くのだろう。

悲しいかな、これと対極にあるのは相続対策のコンサルティングである。
仕事の内容は、要するに納税や遺産分割トラブルの解決である。
なので、あまり明るいシーンは多くない。
要するに利害調整のための打ち合わせの繰り返しなのだ。

税金をどうやって減らし、納めるか。
誰に、どの財産を、どう渡すのか。
義理の嫁と仲が悪い祖母の面倒を誰が看るのか。
介護費用を負担するのは誰か。
そんな類いのコンサルティングが明るい訳がない。

だが考えてみれば、人生とは、そんなものだ。
とても仲の良かった夫婦でも離婚するかもしれないし、
最後には要介護状態になって禍根を残しながら一人で死んでいく。

それは、特に珍しくもない人生のプロセスである。

私の仕事は、この禍根をできるだけ小さくすることだ。
そういう意味では、プロのコンサルタントを自称するならば、
明るい分野と暗い分野の両方がカバーできなければならないだろう。

人生の暗い局面を知らなければ、明るい局面は語れない。
これが、財産形成におけるリスクマネジメントなのだ。

なんか、塩野七生が翻訳した“マキャベリ”を思い出した。
「天国へ行くためには地獄を知らなければならない」と。

余談だが、私は司馬遼太郎が好きではない。
リアリストならば、司馬遼太郎よりも、塩野七生を読むべきだ。
なぜなら彼は歴史家ではなく、小説家である。
脚色が多すぎて、それも後知恵ばかりで、ロジックまでもが怪しい。

もし明治の重鎮たちが優秀で、昭和がだめだというのなら、
歴史的な文脈というものは成立しないではないか。
歴史は、断絶するのだろうか?
過去は未来に影響しないのだろうか?

昭和初期の重鎮たちを育てたのも明治の重鎮たちなのである。

特に乃木希典は、昭和天皇幼少時の教師ですぞ。
乃木希典が愚鈍だったら、昭和天皇も同じということになる。
マッカーサーと直球で対峙した昭和天皇は愚鈍だったのだろうか?

歴史とは、文脈で捉えるべきなのだ。
戦後の文人の歴史観は、洗脳されている。
司馬遼太郎よ、さようなら…。

私は、小説を読むのが苦手だ。ノンフィクションを好む。

また脱線してしまった。
さて、ところでFPの使命とは、何だろうか?
それは、長い人生の様々な局面で目的地への航路を指南する人のことだろう。
海の天候は急変しやすく、暗礁も多い。海賊だっている。
人生を乗り切るための船を設計することができる。
また、造ることもできる。
それがFPに求められる資質だろう。

人生設計とは、バランスシートの設計であり、
設計されたバランスシートは、具現化しなければならない。
理想のバランスシートには、過去から未来への美しい文脈が必要だ。

幸か不幸か、当社は設立後、もう既に19年目になる。
それ以前のキャリアを含めると、私は約30年という期間、
馬鹿の一つ覚えのように(他の事はできないので…)この業界に係わってきた。
個人的に肉体も老けてきた。

では自分の実績とは、何だったのだろうか…。

ただ単に経験年数が長いだけなら、意味が無い。
経験年数は、必ずしも実績とは比例しない。
特に、質的なものとは何の関係も無い。

実績とは、定量的に測るべきものではなく、定性的に測るべきものだ。

私は、直接的に担当してきた相談件数だけなら誰にも負けない気がするし、
取扱資産の総額は、既に1000億円など軽く超えてしまっている。

但し実績とは本来は、相談件数でもないし、取扱金額でもないのだ。

定量的に計測しようとすると、あえて言うならば、
それは「幸せにしてきた人の数」ではないだろうか?

では、私がどれだけ人々を幸せにしてきたのかというと、
これはコンサルティングをした顧客のすべてに、
いわゆる“お客様の声”としてインタビューしてきた訳でもないので、
なんと実態は全くの不明なのである。

だから「私の顧客は皆、すべて大成功している」などという嘘は、
正直に申し上げて、口が裂けても言えない。
「ああしておけば良かった」と思うことも少なくない。

それにしても至極に疑問なのが、巷にありがちな“お客様の声”だ。
「大成功」って、あれは本当なのかね?
たまたま上手く行った事例を大袈裟に喧伝し過ぎではないのかね?

まあ良い。そんな事、どうでも良いことだ。

さて、そもそも“幸せ”とは何だろうか?
幸せな人とは、どんな人のことだろうか?

たぶん、それは精神的にも物理的にも満たされている人だろう。

但し、心と身体の健康状態が保たれていることが絶対の前提条件である。
幸せの定義は難しいが、明らかなのは、
心と身体が病んだ状態の“大金持ち”ほどグロテスクなものはない。

そんな人には「足るを知る(知足)」という言葉を贈りたい。
もしかしたら病気の原因は“執着心”かもしれない。

煩悩が、人を幸せから遠ざける。

まあ、でも、そうは言っても商売なので、私は仕方がなく、
「知足」が足りない人にも優しく親切に対応してはいる。

実績とは何だろうか?

質素な衣食住の中でも人は幸せになれると思う。

代官山のマンションを購入できることが質素か否かは微妙だが、
とりあえず本当に幸せそうなクライアントの年賀状を見ると安心する。
「自分は間違っていなかったんだな…」と確信できるからなのだ。
クライアントの満面の笑みは、積年の疲れを癒してくれる。

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